体験|闘病生活の始まり

私は生まれてから落ち着きがないと幼少のころ父に言われていたのでケガは多い方だった思います。それでも大きな病気はせず、ケガや事故に注意を払い平凡な日常を送ってきたつもりです。32才で結婚して34才で子供を授かり42才の本厄の年にはちゃんと厄除けのきとうを受け将来に夢と希望を持った日々を過ごしていました。大島千代子の「人生いろいろ」のメロディーと歌詞を思い出します。定番の結婚式の祝辞スピーチに3つの坂があり上り坂・下り坂と最後にまさかの坂が起こってしまいました。

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目次

人生が変わる日

2011年9月16日 一日の業務を終え、いつもと同じ通勤路をたどり家に帰る。いつもと少し違うことは、今日は家内の誕生日のため、サプライズで途中のケーキ屋に立ち寄り、ラーメンを1杯食すまではいつも通りのはずだった。
その日はとても肩がこっているのでラーメンを待ちながら首を回していると突然ブチンというゴムが切れる様な鈍い音が頭に響いた。少し時間がたって、左指がゴムのようになった。痛みも何も感じない、何が起こった?嫌な予感がする。不安にに襲われ店員に救急車を呼んでもらうが、最初に現れた警察官に無銭飲食と間違われ事情聴取される(何を言ったのか覚えていない) ただ警官に救急車まで運び込まれたことは理解できた。

しっかりしなくては

救急車の中では名前、住所と連絡先を聴かれしばらくして病院に付いた。到着後、看護師に服を破く同意が求められ、目を閉じればこの世に戻ってこれない畏れがあったので「大丈夫ですよ」と言われるが目をつぶることもできずにいた。いつの間にか寝入ってたのでしょうか記憶にありません。

目を覚ますと

気が付くと家内と子供が真っ青な顔でベッドのそばにいたことを思い出します。
医師の説明では右脳後頭部内で出血のため開口手術したとのことでした。記憶が曖昧なのかどうなったのかすら思い出せずに不安でどうすることも出来ない、どろんだ一日が過ぎていったのです。

明日が考えられない日々

集中治療室から出され病院での慌ただしい生活もひと段落する頃になると少しずつ私自身が置かれている状況が分かり夕暮れとともに絶望という波に飲み込まれ始めました。

どれほどリハビリに取り組んでも左手、左足は感覚を失い付いているように思える日はありませんでした。家内はパートの合間に見舞いにきてくれますがなんて声をかけてよいのかわかりませんでした。子供は中学生で見舞いでは明るく振る舞っていますが不安でしょうから私は「ありがとう」しか言えませんでした。

家内は今後の生活への不安が顔に出ることが時々ありますが、当時の私には答えることができないために頑張るとしか言えずどうすればいいのかと寝静まった病室で独りで考える毎日から睡眠薬が手放せなくなってしまいました。

私は会社から辞めさせられることを覚悟しました。家族への負担と子供の将来を摘んでしまった責任感が一層睡眠薬が必要な精神状態へとすさんでいきました。

人生の終わりを考える毎日


リハビリが始まり、「〇〇療法士です」と言われ何が何だかわからず、午前・午後、曜日ごとにリハビリを毎日続けていました。それぞれのリハビリ療法士から「よくできました」と言われてあんどする私はどこか冷めた愛想笑いをつくり、症状が良くなり以前の生活に戻ることを願い毎日を過ごしました。

私の目に映った療法士の分析

  • 理学療法士
    まひ側のからだを動かし、硬直の防止や動作へのアドバイスと下肢訓練
  • 言語療法士
    朗読など口を動かし、えんげの訓練
  • 作業療法士
    実際に手を動かす動作に伴いコップの持ち上げやボールなどを握ったりと主に上肢訓練

リハビリ病院への転院

今まで救急医療病院であったため、回復期に合わせリハビリ病院へ移らなくてはならず結局は家族への負担と不安をあおる状況にがんばるから~としか言えない私をみじめに感じていました。

一般病室で早1週間


一般病棟に移り1週間がたった頃、主治医からリハビリ病院への転院を告げられ、手渡された書類には、転院先がリストアップされていました。

担当医

症状も安定してきましたね。救急病院から
リハビリ病院へ転院手続きをはじめましょう

転院先の病院の選択を委ねられても、私が決めることもできず、家族への負担をかける事で気がめいってしまいました。

なかまる

家族に負担ばっかりかける、情けない。

一見した考えは2通り
①家族の通院が楽な自宅近辺の病院
②設備が整った市内の大病院
知人の推薦と家族の決断の結果、どこまで回復するかわからないが②の市内の多根総合病院に決まった。

それからは早かった。今さらながら思えば追い出され、出ていくような感じで転院した。

なかまる

決めるのを待っていた?

リハビり病院での生活が始まる


転院先での初診は、再び氏名・生年月日と日時場所の問診からスタート

病室は重度のケアを要する患者が多く、20時に消灯となるが真夜中となるとすすり泣き絶望の声や痛さからかうなる様な声が聞こえて眠れない夜を過ごした。
転室する患者も何人もあり、しばらくすると容体悪化のうわさばなしを耳にすることも多くなり、不安から睡眠薬を常用した。

なかまる

ここにいる人は不安を抱えているんだ

リハビリで最初に取り組んだこと


そんな日常も少しからだが慣れ始めたころから本格的なリハビリが始まりました。

からだを起こしベッドに座る姿勢の維持
ベッドの脇でたつ事と手を動かす事
車椅子に座り、健常側の足と手で操作すること
起立と着席と少しの歩行
トイレトレーニング 最初はトイレで起立のまま下着を下ろしてもらうことから自分で下ろすことへのステップアップ。
リハビリ病院の1カ月は1~5のリハビリでほとんどの時間を費やした。
5がひとりで出来る様になってくると歩行訓練もつえで1m歩けるようになりました。

ただし、左手のリハビリは順調には進みませんでした。

なかまる

良くなっているのだろうか?

主治医から告げられたこと

担当医

基本3ヵ月で退院ですが、難しいので経過観察しています
左手の回復は難しく車いすの生活となる可能性が大きいです。
10年以内で再発するリスクがあるので留意してください。
可能な介護施設を紹介しますのでご検討ください。


医療制度で3ヵ月しか入院できないこと。ケースワーカーとの面談を受け今後をどうするのか考えることなど事務的な処理を言われ、内心では患者に寄り添うと言っているが、気遣いのない病院へは信頼できなかった。この話を家内と一緒に聞いて将来の希望を望むことを諦めました。
そんな中で看護師の献身的なメンタルケアとサポートは今でも忘れられない。

癒やしのナース

元気を出してくださいね

周りに支えられて

多くの人が見舞いに来院してくれました。会社の上司や同僚の応援、親戚からの励ましの言葉は忘れることはありません。

私自身が諦めてしまっては家内や中学生の息子の将来にも影響する

悩まない日はありませんでした。

目の前まっ黒でどうすれば?

いま私ができる事をやってみよう

お見舞いに来たおばに

おばちゃん

「千里の道も一歩から」と言うからネ

なかまる

中国の故事に「疾風に勁草を知る」とあったな

「そうだ、今こそ自分を信じよう」

自分が出来ることを少しずつ増やすチャレンジを始めました。

日記を書きました
漢字や言葉が頭から出ません。当時はひらがなで書くことがほとんどでした。電子辞書を家内に購入してもらい忘れた漢字を調べました。
復職とリハビリの一環としてパソコンを職場の上司が病室に持ち込んでくれました。
上司に感謝しました。使ってみると両手でなければ出来ない作業を知りました
携帯で家内にメッセージを送りました。

嫁さん

誤字脱字が多いよ、わかってた?


誤字脱字で何を書いてるのかわからないと家内に言われ発信前に何度も読み返しました(それでも誤字脱字が多かった)
マンガ本も読みました。

息子

コミック漫画本を持ってきたよ


ページをめくれず指に唾を付け読み終わるとマンガ本は唾液で汚れてしまいます。

なかまる

無理せず、今から出来ることを増やそう

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